みかん色の夢

花火で町おこしを…。ちいきおこしきょうりょくたいになった記憶と記録。 by,GOGOばっし~

あの日のこと。

ずっと心の中にしまっておこうと思っていた想いを10年めを迎えるにあたり気持ちの成仏のために開きます。

ただひたすら長いだけの自分語りです。

 

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…あの日、わたしは被災者でした。

誰も死んでないから、被災者というのもおこがましいのかもしれないけど。

 

液状化現象と水道管破裂で水没した地下ロッカーの中を泳いで、車の鍵だけを救い出した。

ここから通常なら70分の通勤路。道路は?家は?川は?海は?

情報もなく不安なまま信号もつかない大渋滞の道を6時間かけて帰宅した。

大渋滞の中でカーナビのテレビで惨状を知ることになる。

この時、看護師1年目。

看護師でありながら、誰の命も救えなかった…自責の念に駆られた。

 

幸いにもわたしが住んでいた街はほとんど被害がなく、ライフラインも正常で、目を覆いたくなる光景を映し出すテレビを消して、故郷の様子を見に行くことにした。

 

そこで見た光景は、怖いもの見たさなだけで、正常性バイアスが働いた脳みそには衝撃的な映像だった。

 

縦になった車

折れた桜の木

積み上がる泥だらけの家財道具

幼少の頃に遊んだ公園

両親と行った釣り場やご飯屋さん

親戚の家の庭

同級生の家

 

16人の方が犠牲となった故郷は見える全てのものが形を変え立ち塞がっていた。

 

その瞬間から、わたしは考えることを放棄してしまった。

 

故郷の名が出るたびに耳を塞ぎ

故郷の名を名乗るのをやめていた。

 

 

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時は過ぎ看護師として「中堅」と呼ばれる域にはいり、仕事上で泣くこともほとんどなくなり、強くなっていた。

その頃は飛行機撮影仲間の宮城県の友人たちと密に連絡を取り合うようになっていた。

 

あの日以来、ハマっていた飛行機撮影。

 

成田空港が近かったので、支援物資や支援部隊を載せた大型機が行き交うのを見ては写真におさめていた。

…いわゆる現実逃避、だったのだと自負している。

 

飛行機見る時は空を見上げるでしょ?

その時だけは涙がこぼれないんだよ。

 

宮城県から来た飛行機仲間にそう言ったのを今でも覚えている。

 

その人がハマっていたのが花火撮影で

見たこともない大きな美しい花火を動画で伝えてくれていた。

 

花火…撮ってみようかな…

 

そんな気持ちにさせてくれた。

 

わたしの住む辺りでは、花火といえば海でやるものだった。

 

…あの日から、海が怖くて近づいていなかった。

 

5年ぶりに訪れた海は復興など程遠く、知られることの少ない隠れ被災地である千葉の海岸は、津波で削られてそのままの形でいた。

 

思考を停止していたわたしの目には「手入れの行き届かない海水浴場」として処理され、初めての花火撮影にどっぷりとハマり込んで行ったのであった。

 

その事をきっかけに、近づくことを避けた海も見れるようになり、少しだけ現実を受け止められるようになった。その折に東北に行く機会ができた。

 

仙台に行くのは初めてではなかったのでわかる。

仙台は復興が進んでいた。

 

誰もが

「あの時はさー」

と、あの日を振り返り、笑いながら普通の生活を送っているので、あのことは夢だったんじゃないか?とすら思った。

 

「宮城を見たいなら石巻から北を見ればいい」

 

そう聞いて、仙台から海沿いを北に走った。

 

元の形を知らないことが幸いして、工事が多い地域だなー、と思いながら冬の低い太陽を感じながら走る。

 

ボロボロの駅舎

草だらけの線路

泥まみれの学校

 

北に進むほどに、時が止まってしまったのでは無いか?と思わせるほどに復興がすすんでいない。わたしの気持ちも重くなる。

 

…ここで生きたい。あの日生きられなかった誰かの代わりを生きたい。

 

何故かそう思った。

 

その頃から月一ペースで宮城県に行った。

 

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毎年3.11には慰霊祭に行った。

生きられなかった誰かのために、笑って幸せに生きることを誓った。生きてるだけで幸せだ、そう思っていた。

 

何年目かの冬

宮城の「兄ちゃん」が病気で死んだ。

わたしと同い年だった。

背負うものがひとつ増えた。

「兄ちゃん」のためにも、わたしは幸せに生きないといけない。

 

この地に来て、誰もがわたしを笑って手を広げて迎えてくれた。

土地に歓迎されている。

ある日、道に迷ってキョロキョロしていたら地元のおじさんに声をかけられた。

おじさんは丁寧にわたしの行き先を教えてくれて、目的の場所まで連れていってくれた。

 

おじさんはあの日家を流された。あれから7年経っても仮設住宅暮らし。

それなのに千葉県の被災地出身だと言ったら「被害者が出た地域だ。よく生きててくれたなぁ。宮城に来てくれてありがとうなー」と、泣いた。

泣きたいのはこっちだ。

 

そんな地で、わたしは恩返しをしたかった。

その矢先に「兄ちゃん」を失って、また大切な命を助けられなかったナースの自分を責めた。

 

ナースだからこそわかる。

さっきまで一緒に笑っていた大事な人が、振り返ったらいなくなっていた。そんなことはありえないことではない。

大切な時間はいつ突然なくなるかなんて、誰もわからない。

大切な人と繋いだその手は決して離してはいけない。

 

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本当にわたしは、幸せなのだろうか?

誰かのために?誰のために?

背負うものが増えすぎて、わからなくなった。

 

あの日からわたしはずっと考えるのをやめたままだった。まるで自分じゃないような感覚があった。このままずっと誰かの幸せを願って、誰かのせいにして、他力本願な生き方でいいのだろうか?

 

あの日の出来事は2万人が亡くなった1つの災害、ではなくて

 

1つの災害に2万人分のドラマがあった

もちろん、生きている全ての人にもドラマが今でも続いている。

 

自分の思い描く未来を幸せにすることは、生きる人の宿命。

 

夢に「兄ちゃん」が出てきた

 

「自分のために幸せになれ」

 

って、にこにこ笑っていた。

 

8回目のあの日。

 

わたしは東北を出ることを選んだ。

 

そのために

誰かを傷つけ、

新しい道を切り開くために

誰かに迷惑をかけて

疎まれたり

恨まれたり

しているかもしれない。

 

転んだり、立ち止まったり

振り返ったり

 

たくさんたくさん悩んだけど

 

今は幸せに生きているよ。

 

東北を見捨てたとか

忘れたとか

 

そんなんじゃなくて

 

「あの日はさー」

って笑って幸せに生きてる東北の人たちに励まされたから、遠く離れても幸せに生きていける自信になった。

 

今でも海はこわい。

静かな美しい海が

いつかまた牙を剥いてくるんじゃないかって。

 

だからこそ

海沿いに住むことを選んだ。

 

あの日助けられなかった誰かを

今度は助けられるように

BLS(一次救命の資格)も取った。

 

10年前のあの日

生きられなかった誰かが

安心して見守っていられるように

わたしは

遠く離れても

わたしの幸せのために

笑って生きていかなければならない。

その幸せを

みんなにおすそ分けして

釣られて笑ってもらえるように。

それがきっとわたしに課せられたドラマであり、宿命である…